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本当にヤバいのは「技術者」ではない人達だと思う

ようやく『ネットvs.リアルの衝突』を読み終えた(本読むの遅いもんで)。 本読んでる間にも続々記事が上がっていくのを横目に見ながら。 そしてそれらの記事に釈然としないものを感じながら。

とういうわけで, 感想がてら今考えていることを吐露してみようと思う。 といっても大筋は既に書いているのだが。

ネットvs.リアルの衝突
佐々木 俊尚著
文芸春秋 (2006.12)
通常24時間以内に発送します。

他にこの本の続きとして以下の記事を前提に話を進めていく。

他にも気になる記事はたくさんあったが, とりあえず。 なお, 現時点で判決書はまだオンラインには出回ってない模様。 (まぁたとえ出てても私が読んで理解できるかどうかは相当怪しいが)

突然だが『はやぶさ―不死身の探査機と宇宙研の物語』という本がある (これはこれでまた別の機会に改めて紹介する予定だが,実はまだ全部読んでない)。 この本の中にこんな一節がある。(p.180)

「理学は、真理の探究であり、工学は善の実現である。 そして、藝術は美の表現である--これで所謂「真美善」が揃う」

「善の実現」はソフトウェアエンジニアにも言える。 エンジニアの使命は「善きもの」を構築することだ。 誰にとって? 決まっている。 それを使う人たちにとってだ。 だがそれが問題なのだ。 ある人たちにとって「善かれ」と思って作ったものが本来のセグメントを越えて使われだしたとき, それでもそれは「善きもの」でいられるのだろうか。 そしてもっと本質的な問題がある。 ある環境においてエンジニアもそうでない人も同じアイデアを同じように実現できてしまうとしたら, 何を以って「善」を担保できるのか。

もうひとつ。 「「不 当 判 決」 村井証人証言は僕ら技術者を幸せにしたか」にこういう記述がある。

「ここで、一般に、次の2つの司法判断を想定してみる。

(a) 違法な利用目的以外に利用価値のない技術(違法目的以外の利用には他の十分な技術が存在する)について、開発者が犯罪幇助の罪で処罰される。
(b) 有意義で価値中立的な技術について、開発者が犯罪幇助の罪で処罰される。社会における現実の利用状況に対する開発者の認識によって。

どちらが技術者にとって不安が大きいか。
革命を起こす目的で確信犯を承知で(a)のソフトウェアを開発し提供する技術者にとっては、(b)の方が不安が小さいだろう。利用状況に対する認識と提供する際の主観的態様を露呈しないように潜んでいればよい。
しかし、有意義で価値中立的な技術を生み出しているつもりの世の大半の技術者にとっては、(a)の方が不安が小さい。なぜなら、違法な利用目的以外に利用価値のない技術など、はなっから開発しようなどとは考えもしないでいるからだ。」

そもそもこの2つを択一的に比較するのもおかしな話だが(この記事はまず「Winny は悪」という大前提があって, そのゴールから逆向きに話を組み立てているように見える。 これは「ニセ科学」にありがちな話の展開のさせ方である。 意図してそう書いてらっしゃるのだろうか), 敢えてどちらがいいかと言われれば, 私は (b) を取る。 ただし, どこまでが幇助であるか具体的で明確な線引きがされていれば, という条件付で(そうでなければどちらも No だ)。 まぁ今回の判決では線引きが示されなかったのだが。 「善良な技術者」は確かに「違法な利用目的以外に利用価値のない技術など、はなっから開発しようなどとは考えもしない」だろう。 しかしある目的に対する利用価値の有無は技術者が決めるものではなく利用者が決めるものだ。 作ってる本人は「善かれ」と思っているのに「違法な利用目的」以外で利用する人がひとりもいなかったとしたら, それは(非難はされるだろうけど)罪になるのか。 破壊する以外に何の価値もないように見える核兵器だって国が保有するのであれば合法でパワーバランスを支えるために有用だと見なされる場合がある。 第三国や個人が保有することは禁じられているにも関わらず, だ。(ちなみに私は核兵器を容認しているわけではない,念のため)

どんな技術であれ価値に対して中立だし, その前提で考えなければ何も始まらない。 合法であれ違法であれ善であれ悪であれ, 価値というのは人と人との営みの中で生まれるものであり, 技術はあくまでもその実現手段である。 技術自体になにがしかの価値があるという幻想は人の傲慢の顕れだ(まぁ IT 企業から見れば「技術力」がセールスポイントであることは間違いないけど)。 だからこそ技術自体を争点とせずに, それを使役する人の思惑のほうが注目されたのだ。

私は Winny 作者の金子勇さんにお会いしたことはないし, まぁ強いて言うなら『Winny の技術』を読んだ程度だが, 失礼を承知で言わせてもらえれば金子勇さんは到底エンジニアには見えない。 どちらかと言うと研究者である。 先ほどの「真美善」の喩えで言うなら真理を探究する人だ。 故に今回の判決を以って「技術者(開発者)が云々」というのは的を外しているような気がしてならない。 むしろエンジニアっぽくない彼がこのような判決を受けることに不安を感じる。

ネットの上の技術やツール・サービスはユーザに使われることによって自然淘汰されてきた。 自然淘汰が成立するためにはその系が多様性に富んでいることが必要条件だ。 多様であるからこそ私たちユーザは選ぶことができるし既存のものを組み合わせて新しい価値を生み出すこともできる。 そして今やその多様性を支えはじめているのは「エンジニアっぽくない」人たちだ。 特に Web においては主要なプログラミング素材はそこら中に落ちていて, それらを組み合わせれば誰でも DIY 感覚でそれなりのものができてしまう。 DIY レベルなら言語仕様を知らなくったって Perl や Ruby のスクリプトは弄れる。 困ったら Google に訊けばいい。 ほとんどはオモチャみたいなものかもしれないが, そういったものの中から優れたアイデアが台頭してくる。 この傾向は今後もっと強まるだろう。

ネットは大抵の場合そういった人の営みを容認し信頼している。 しかし今回の判決はそうした関係に影を落とすかもしれない。 ひとつはよく言われるように法や規範からの圧力がネット上にある技術の多様性を奪うかもしれないこと。 もうひとつはネットがフラットであるが故にセグメントを設定しづらく影響範囲をコントロールできないこと。 2つの影は互いにリンクしている。 切れた信頼の輪は不信の連鎖へと変わる。

Winny は実証実験としての側面を持っていると思うが, その結果の如何に関わらず巻き戻すことができない。 『ネットvs.リアルの衝突』では「パンドラの箱」に喩えているが, まさにその通りで, もはやどうやっても「Winny 以前」に戻ることはできないのである (たとえ Winny を非合法と認定したとしても Winny コンセプトのソフトウェアがなくなることはないだろう)。

限定的なセグメントの中でのみ機能し「顔の見える信頼感」を担保に運営されていたインターネットの「古き良き」時代は終わってしまった。 今やネットの中のユーザは「真美善」の調和ではなく自らの欲望に基づいて行動する。 一方でセキュリティもまた人の欲望の顕れである。 セキュリティは人から多様性を剥ぎ取った上で静的な系(system)を構成する「部品」として組み込むことによって(人ではなく系の)安定を得ようとするもので, それは究極的には「死」と同じである。 しかし実際には私たちはどちらか一方のみを選んで突き進むことはできない。 本当に欲しいのは両者のバランスである。 Winny というパンドラの箱は両者を引き裂き大きくバランスを崩そうとしている。 このバランスを取り戻すために必要なのは「鬼ごっこ」の鬼を決めることではなく, 全てを許容した上でそれらとどのように付き合うかという「知恵」である。