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「繋がりの社会性」は繋がりを指向しない

仕事中だったのだが, 出し抜けに上記のフレーズが涌いて出た。 嗚呼, そういうことだったのか。

結局ケータイや mixi などで多くの人が行っているコミュニケーションは「誰と繋がるか」ではなく「どの程度繋がっているか」に価値をおいている。 だから, 極端なことを言えば繋がる相手は誰でもよくて「より強く繋がっている」と感じられればそれでいいわけだ。 セックス嗜癖(Sexual Addiction)もそんな感じ? 更に言えば, 「強度」さえ満たしていればいいのだから相手は人である必要もない。 いつでも楽しくおしゃべりできるのなら相手がシステムそのものだっていいんじゃないのか。 例えば人口無能とか。 最近は違うかもしれないけど, ケータイのアドレス帳に載せている「友人」の数や mixi におけるマイミクシィや参加コミュニティの数を競う行為なんかもそうかもしれない。

そういえば最近こんな記事があった。

要するにこの記事は mixi の「あしあと」機能や最終ログイン時間の表示機能などが“告げグチ”だと言っているわけだが, これを読んで思い出したのが風野春樹さんの「ぱど厨」の話。 (厳密には「他人の素材に直リンする、アップローダなどを無断借用する、などの行為を行う小中学生がこのコミュニティに多かったため、「ぱど厨」という言葉が生まれた」ということなので, この記事で紹介されているぱどタウン住民が「ぱど厨」というわけではないのだが, 便宜上そう言っておく)

両者に共通するのは同じくコミュニケーションの「強度」への耽溺だ。 きちんと他者を認識して関係を構築できない発達段階の子供ならまだ分かる(だから「ぱど厨」は「痛々しく思えてきてしまう」わけだが)。 しかしこのようなコミュニケーションの様態は子供に特有というわけではないのだ。

誰かと誰かが本当に繋がっているのなら必ずしも「強度」は必要条件にはならない。 繋がっていないからこそ, そのギャップを「強度」で埋めようとする。 そして「強度」を提供するシステムが必須であるかのような錯覚を起こす (巷に氾濫する Web 2.0 ツールも結局のところコミュニケーションの「強度」のみを提供する)。 それが「繋がりの社会性」の本質なんじゃないのか。 つまり「気のせい」なのである。

(うう, オチがいまいち...)