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労働者から見た著作物

私の中で整理するために今考えていることを吐き出しておく。 毎度のことながら後で考えがガラッと変わることもありうるので、 その辺はご容赦。

例がアレで申し訳ないが、 私は「著作」という行為の結果(成果)としての「著作物」にあまり執着がない。 ぶっちゃけて言うなら 「出来上がったものは既に私のコントロールを離れてるんだから他の誰のものであろうと私の知ったこっちゃない」 のである。 この「感覚」は私の仕事のやり方にも影響している。 私は「流しのプログラマ」であり、 私が仕事で書いたコードの著作権は基本的に相手企業のもので(著作権法第15条 職務上作成する著作物の著作者)、 著作者人格権も行使しないよう明示的に契約を交わしている。 「それでも別にかまわない」と思っている私の意識の底にはこの「感覚」があるわけだ。

(余談だが)こういうことを書くとプログラマ失格と言われるかもしれないが、 私は開発工程の中で「コーディング」が一番苦手である。 だいたい「コーディング」開始時点で既に頭の中ではプログラムが完成しているもんだ。 つまり「コーディング」ってのは脳内プログラムを(場合によっては使用するプログラミング言語に「翻訳」しつつ)書き写す「写経」に過ぎない。 人によってはそれで悟りを得られるかもしれないが私にとってはひたすら苦行である。 (でもデバッグは数理パズルの一種なので結構好き。 世の中にはやたらとテスト好きな人間がいるそうだが、 実はその過程で発生するデバッグが純粋にゲームとして楽しいからじゃないの? とか失礼なことを書いてみる)

上述のような「感覚」の人がなんでものを作り続けていられるかというと、 (今日の晩飯代を稼ぐためとかいった切実な理由はとりあえず脇において)ものを作る現場に帰属してると感じることが(承認される)喜びになっているからだ。 だからその成果としての著作物を(場合によっては著作物と意識することもなく)提示し続けることができる。 こういう感じに個人の成果としての著作物を意識しない人は実は結構多いんじゃないだろうか。

これをプログラム/ソフトウェアに限定せず、 もっと一般的な「業務」に拡大して考えるなら、 毎日大量に出力される報告書や企画書だって著作物だし電話の履歴や TV 会議の動画だって著作物。 更に言えば世の中のありとあらゆる構築物は沢山の人の「知」の集合体だ。 でも普通はそんな風には考えない。 15条を持ち出すまでもなく、 個々人たちが出力する「知」は自然に所属する企業・組織の「知」として組み込まれ、 そのことが帰属意識や loyalty を高めるインセンティヴになっている。 そうしてますます私たちは「知」を差し出すのである。

長々と何を書いてるかというと、 いわゆる「知識労働者」にカテゴライズされる人たちの多くは著作物ではなく著作するプロセスに愛着を感じている人であり、 それゆえに「知的」ななにかを「表現」しているという意識も薄いんじゃないのか、 と思いはじめているのだ。 それを単に「権利意識のない人」で括っちゃまずいかもしれない。

しかし、 別に「ご高名な先生の作品」でなくとも私たちが日々仕事で生み出しているものは著作権法が規定する著作物であり、 しかもそれが自分のものであることを意識することもなく別の「誰か」のものとして利用され続けていることは意識してもいいと思う。