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ケータイという身体属性 2

Vox である人と話していて気がついたことを追記しておく。

「ケータイ型ユーザはネットに公共性や社会性を感じていないし求めてもいない」 って書いたけど, ユーザ自身はコミュニケーションの場における公共性や社会性を感じていないとは言えない。 「はしご禁止」「素通り/読み逃げ禁止」といったものは, コミュニケーションの場における彼等なりの儀礼・典礼(protocol)と考えることもできるからだ。 この protocol はネットの更に上のレイヤに作られている。

つまり私たち古参のユーザは protocol をネットのアーキテクチャとして組み込もうとするが, ケータイ型ユーザはアーキテクチャが持つそのような側面を全く無視して(あるいは知らずに)きわめて(現代の前という意味での)近代的なやり方で protocol を構築しているわけだ。 もちろんこうなるのには理由があって, それはケータイにおけるネットワーク機能の貧弱さにある。 貧弱というのは厳密じゃないかな。 敢えて「ネットワーク」を想像させない糸電話的フレーム(世界観)とでも言うべきか。 そんなフレームの中にどっぷり浸かっている子たちは, その中でも通用する独自の protocol を文字通り「体得」しているわけだ。

もしこの妄想にいくらかでも真実味があるとするとちょっと怖いことだ。 私達はネットを社会的装置として認識しているからこそ「ネットの中立性」とかいったことが議論の対象になる。 しかし糸電話的フレームに生きてる人はネットを意識しないのだから議論の対象にもならない。 インターネットは既存の電話網と同じく単なる「網間」としてしか認識できないのだから「だったら NGN でいいぢゃん」という話にもなるわけだ。 あぁ, ひょっとしてそれが「iモードという失敗」の核心なのか?