「まなざし」としての監視

no extension

佐々木俊尚さんの記事 「暗黙共同体へ-秋葉原事件で考える」 の中で

「ブログ「アンカテ」のessa氏は、 深い絶望を検知するそのソフトは赤木論文に反応するだろうか?というエントリーで、 犯罪予告の検知ではなく、 人の絶望を検知するソフトの開発を期待している」

と書かれているのだが, 本気で言っておられるのだろうか。 私にはあの記事全体が皮肉であり反語であるように読めるのだけど。 essa さんの真意はともかく, 「インターネット上の犯罪予告を検知できるソフトウエア」が「「絶望」を検知するソフト」であるなら, そりゃあ言論統制に他ならないだろうと思ったりする。

ゼロ億円をかけて(笑)作られた 予告.in には致命的な問題がある。 それは検知後の通報の仕組みがないことだ。 開発者の矢野さとるさんの記事によると

「でも流石にいちどに何度も通報するのは、迷惑がかかるらしく、
パトカーも地域に4台しかないから、むやみやたら通報しないでね♪と、
すごく優しい顔で言われた。(´∀`*)ポッ」

とあって腹を抱えて笑ってしまった。 (ちなみに「「ネット上の殺人予告は110番を」 警察庁、通信業界団体に要請」ということになっている) 前にも書いたが, この手のシステムで重要なのは, 検知から通報, 通報から対処までの一連の流れを確立することであり, これは 予告.in だけではどうしようもない。 それこそ, ン億円をかけて是非作ってもらいたいところである。 情報というのは滞留すればそこで腐ってしまうものだ。 (最近の 予告.in を見ると Web 上でできる通報フォームってのもあるらしいが, こんな感じらしい)

まぁでも見方を変えれば, 警察は「犯行予告」を検知することに本気ではないとも言える。 ほとんどの「犯行予告」は悪戯だろうし, 「○○を襲撃する」とか言うのなら備えることもできるかもしれないけど, これが例えば「秋葉原でその辺の人を殺す」とかいった漠然としたものなら, その地区全体に外出禁止令を出すとかしない限り対処のしようがない (もちろん本気かどうかも分からん書き込みにそんなことができるわけもない)。 でも今はマスコミも騒いでるし無視するわけにもいかないので, ただのいたずら書きに適当な罪をくっつけてしょっ引かざるを得ないんじゃないだろうか。 んでもって, それで捕まえたら, まるで社会現象であるとでも言わんばかりに更にマスコミが書きたてるわけだ。 これは少し前に流行した硫化水素自殺と同じく, マスコミという装置によるマッチポンプ広告なのである。 なんのための広告? もちろん視聴率を稼ぐための広告である。

前にも書いたとおり, 今回の事件は個人的な動機に基づく個人的な犯行である。 essa さんは「自分の絶望が理解されないだろうという絶望」の中で

「「誰かに見つけてほしいけど」の部分が無ければ、 そもそも公開の掲示板に書き込むということはしないでしょう。 彼はわずかながら最後の希望を持っているわけです。」

と書かれているけど, ログをチラッと見た限りではとてもそんな風には見えない。 彼の場合, 単に自己評価の低さを他の者(物)に転嫁しているだけだ。 しかも自分自身で決めた行動すら誰かに(何かに)転嫁せずにはいられない。 だからこそあの場で彼は予告してみせているのである。 そうすれば, 「自分の行動を誰も止めなかった」と他者に転嫁できるからだ (もし本当にそうなら,いかなる説得をしても彼を止められなかっただろう)。 周りはそれにまんまと乗っかる形で派遣先や派遣会社が悪いとか雇用政策が悪いとかオタクなのが悪いとか親が悪いとか言っちゃってるわけで, そう言ってる連中も, 結局のところ, 犯罪を犯した彼と「同じ穴のムジナ」なのである。

「自分の絶望が理解されないだろう」ことは決して絶望なんかじゃない。 それは他者への理解の第一歩であり, 重要な「悟り」なのである。 この悟りを経て人はようやく他者を他者として認識することができる。 そう, 今「悟り」と書いたように, これは誰かから与えられる類いのものではなく(それ故に誰かが救えるなどという発想は傲慢である), 自らの意思で獲得しなければならない。

それでも私は 予告.in はとてもよい実装だと思う。 それは, このサービス自体がネットというシステム上の「まなざし」として機能し得るからだ。

かつて商店街などに設置される監視カメラについて議論があったとき, ある方が言われた 「監視カメラは「ご近所のまなざし」として機能し得る」という言葉 (多分。うろ覚え。ごめんなさい) に膝をうったおぼえがある。 予告.in もある意味で監視サービスである。 監視はそれ自体がサービスの利用者に対し暗黙的な抑圧または強迫を押し付ける。 そして監視は, 多くの場合, 他者の行動を支配(コントロール)する目的で使われる。 しかし, それが「まなざし」であるなら話は変わってくる。 「まなざし」は支配することと同じではない。

どんな人間関係であれ, 必ず両者の間には一定の距離があるものだし, 距離感に応じた付き合い方ってものがあるはずだ。 でも(これが日本人的な発想なのかどうか分からないが)どうも人間関係を考えるときって「関係があるかないか」の2択になってしまっているように思える。 言ってみれば「密着」と「排除」の2通りのコミュニケーションしかとれない。 佐々木俊尚さんの 「暗黙共同体へ-秋葉原事件で考える」 でもそんな印象を受ける。

(この辺の論考については宮台真司さんの記事の中にある

「「格差社会がもたらす絶望」云々の議論は完全な出鱈目じゃないが、周辺要因です。
最大の問題は社会的包摂性で、これは格差に還元できない社会的相続財産の問題です。」

という部分が一番納得できた。 ちなみに社会的排除と社会的包摂については 「社会的包摂政策を推進する欧州連合」(PDF) が参考になった。 この件についてはも少し勉強してから)

でも人間関係というのは(よほど特殊な関係でもない限り)「密着」でも「排除」でもないのが普通でしょ。 Twitter なんかだとそれがよく見える。 関係があるかどうかってのはシステムの手続き上の問題であって, それがどんな関係であるかについては更に別のレイヤの問題である。

システムにおける関係者の視線が「まなざし」であって, それは相互監視として機能する。 ちょうど「人々が闇夜に持つランタン」のように。 「まなざし」によって今回のケースが予防できるとは思えないが (っていうか,あれをアーキテクチャでなんとかできると考えるほうが無茶), 「まなざし」がもたらすものによって(完全な支配は無理にしても)ネット上の行動を少しだけ「ずらす」ことができるはずで, そのずらされた部分の集積を「規範」と呼んでもいいんじゃないだろうか。