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「教わる」ということ

結城浩さんの note より。

結城浩さんのこの手の話はいつも秀逸で,とくに息子さんとの会話は感動すら覚えます(うちの親父もこんなだったらなぁ)。 上の記事は,言わばその原点になるような話でしょうか。 有料ですがお金を払って読む価値はあります。

私は「教える」ことがとことん苦手です。 まず相手が何を欲しているか把握するのにいつも苦労します(だいたい最初の質問は相手の訊きたいことじゃない)。 把握できたとしても,それをどうやって伝えるか(伝わるか)でまた苦労する(周囲から見た私のブログの評価は「何が書いてあるのかわからない」だったりする。まぁ脳内の core dump みたいなもんだしなぁ)。 「教える」ことができるというのは本当に凄い才能だと心の底から思います。

でも,「教える」のではなく「教わる」のであれば私でもできそうです。

自転車の思い出

うちの両親は勉強に関しては何ひとつ教えてくれませんでした。 教育に熱心でないのではなく(少ない収入の中から私に教材や本を買い与えてくれたので),多分「教える」ことがあまり得意ではないのではないかと推測します(親子だなぁ)。 ただ,勉強ではなく実践的なこと(料理の基本部分や遊びの仕方など)は色々教わりました。 私が小学生で味醂の味を覚えてしまったのも,左利きなのに「右投げ右打ち」なのも全部両親の影響です。

親父に教わったことの中で今でも印象深いのは自転車の乗り方でした。

よくマンガやドラマでは自転車の乗り方を教えるのに後ろから補助してあげる光景が見られますよね。 うちの親父は一切補助とかしてくれませんでした。

その代わり最初に教わったのは「転び方」でした。 自転車でどうやったら怪我なく転ぶことができるか徹底的に仕込まれました。 そうして上手に転べるようになった頃には普通に自転車に乗れるようになっていました。 あれは見事だなと思います。

今考えると,このとき学んだことは私の基幹になっています。 プログラムを組むときにまず default つまり異常系から考えて組む習慣も,このへんがルーツかもしれません。

(余談だけど,異常系から先に組む私にとって Go 言語はとても相性のいい言語な気がする。

最初,返り値を複数指定できる仕様について「struct で返せばいいんじゃないの?」って思ってたけど,エラーハンドリングのことまで考えると秀逸な仕様だと思わずにはいられない)

「答え」を教わらないこと

学生時代にもっとも影響を受けた学校教師は,小学3,4年生のときの担任でした。 彼女は国語教師で熱心な仏教信者(宗派は知らない。子供の頃の私には仏教に宗派があることを知らなかった)でしたが,私が科学,特に物理学に転ぶきっかけのひとつになったのも彼女でした。

その前の小学1,2年のときの担任は「答え」を決めつけるタイプの人で,その点が子供ながらに嫌いでした(でもいい人なんですよ)。 彼女は正反対。 最初から「答え」を言って決めつけることは絶対にしませんでした。 たとえば理科の実験で実験装置の組み立てを間違ってたとしても絶対に口出ししたりしません。 で,案の定実験は失敗するのですが(あのときは水蒸気でゴム栓が吹っ飛んで天井に消えないシミが出来てしまったw 今はそういうの絶対にさせないだろうけど),そこでも何故失敗したか教えたりしません。 みんなで失敗の理由を考えさせます。

でも何もしないわけではなく,彼女は極めて優秀な conductor でした。 その失敗から学ぶプロセスは「科学」の歴史そのものなのです。

彼女から学んだことはもうひとつ。 あらゆる知識は繋がっていて,そのネットワークによって「大系(system)」が構築されていること。 なおかつ「大系」を学ぶには独学では限界があるということ,でした。(もちろん当時は子供なので,こんな語彙は持ち合わせてなかったですが,感覚としては分かっていました)

多分これ以降から読書傾向が変わりました。 それまでは親が買い与えてくれた伝記物や物語の本をよく読んでいたのですが,県の図書館で参考書や解説書を借りて読むことが多くなりました。 親は私がちゃんと勉強していると勘違いしてたみたいですが(笑) 夏休みの宿題に困って学習参考書の読書感想文を書くなどというふざけたことをやってたのもこの頃でした。 彼女は知ってて敢えて容認してくれましたが。

私が好むのは単に知識を授けてくれる本ではなく,その知識がどこから繋がってどこへ繋がっていくのか,大系(の片鱗)を見せてくれるものです。 「答え」は到達点ではなく通過点に過ぎません。 その「答え」は次の「問い」に連接しているのです。

「学校」の外側

と,ここまで書いて終わりにするはずだったが,面白い記事が出てるので紹介。

私は芸術分野には(学問としては)全く興味が無いのだが,特に「後篇」が面白いので,少し抜書きしてみる。

だいたい、「感性を豊かにし」「情操を養う」とは、学校が教授するものなのか。学校が教える「感性」「情操」とは、どんなものなのか。小学生が学校で教わった通りに、モーツァルトのトルコ行進曲はいい音楽だねえ、なんて本気で口走るなど、想像しただけで胸糞が悪くなる。人間の感性や情操が、すべて他から与えられた経験や知識によって創り上げられるということを認めた上で、けったくそ悪いのである。
学校で教える音楽なんて、ほんとうの音楽じゃねえ。この苛立ちがあれば、では自分にとって「ほんとうの音楽」とは何か、さらには、自分の音楽を探そう、という衝動までは、一歩か二歩である。この衝動を手に入れた生徒、もしくは「もと生徒」は、学校の音楽に背を向け、自分の音楽を探し始めるだろう。
その時音楽が生れる。音楽への愛が。あてがわれたものではない、どこからか自分で探してきた音楽が、個々の人間の中に生れる。
学校教育が生徒を、自己表現の手段に音楽を選ぶ人間に育成するためにできる最大のことは、彼らに対し壁となって立ちはだかることである。彼らに反撥を感じさせ、苛立ちをかき立て、自分の音楽に餓えさせる、「アカデミズムの牙城」となることである。
こんにち新しい音楽が、いや芸術全般が力を失っていることは誰の目にも明らかだ。教育機関の「旧態依然たる権威」であることの放棄、そして「教えられる側の無知」へのへり下りが、芸術の脆弱化と無縁であるとは、僕は思わない。
音楽教育理数系編入論【後篇】より

「学校」についての議論は色々あるだろうが,学校が個々の生徒に対して最終的に課すのは「学校から出て行く」ことである。 それはアイドル曲の歌詞みたいな情緒的な「卒業」なんかじゃなく学校から「叩き出す」ことなのだ。 それってつまり「巣立ち」であって「親離れ」であって(学校側から見れば)「子離れ」である。

孵卵器(incubator)から生まれた雛が孵卵器に帰ることはない。 孵卵器にいる時の私たちは孵卵器の外など想像できないかもしれないが,孵卵器の最終目的は中にいる雛を外に叩き出すことにある。

私たちが「教わる」のは教えてくれるものがいなくても自ら学ぶことができるようにするためである。 というわけで,最後はやっぱり結城浩さんのあの名作の言葉で締めよう。

僕たちは好きで学んでいる。
先生を待つ必要はない。授業を待つ必要はない。
本を探せばいい。本を読めばいい。
広く、深く、ずっと先まで勉強すればいい
『数学ガール』 p.330 より

参考文献

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子どもが体験するべき50の危険なこと (Make: Japan Books)
Gever Tulley Julie Spiegler 金井 哲夫
オライリージャパン 2011-05-26
評価

ギークマム ―21世紀のママと家族のための実験、工作、冒険アイデア (Make: Japan Books) 秘密基地の作り方 子どもの創造力スイッチ!   遊びと学びのひみつ基地CANVASの実践 Cooking for Geeks ―料理の科学と実践レシピ (Make: Japan Books) Made by Hand ―ポンコツDIYで自分を取り戻す (Make: Japan Books)

ただ守るだけではダメなのよ。

reviewed by Spiegel on 2014/10/08 (powered by G-Tools)

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数学ガール
結城 浩
SBクリエイティブ株式会社 2014-02-14
評価

数学ガールの秘密ノート/微分を追いかけて 数学ガール/フェルマーの最終定理 数学ガール/ゲーデルの不完全性定理 数学ガールの秘密ノート/数列の広場 数学ガールの秘密ノート/丸い三角関数

「数学ガール」シリーズ第1作目。ミルカさん衝撃の登場から分割数まで。

reviewed by Spiegel on 2015/06/06 (powered by G-Tools)