クリエイティブ・コモンズについて

no extension

(この記事は「もっと辺境から戯れ言」に投稿した記事からの転載です)

立て続けに面白いコンテンツを見つけたのでメモ。(あっ、かみむらけいすけさんの Weblog 発見)

今回は「もっと辺境から戯れ言」の本格運用を記念して, いつもは本家で書いているようなことをもうちょっとだけ真面目に考えてみたいと思います。

ある「作品」に対して必ずその作品の「作者」がいて, その作者は作品の「利用者」に対して排他的な権利を有している, というのが「著作権」の基本的な考え方です。 しかし作品が利用者によって消費し尽くされると「作品」と「作者」の関係が(利用者から見て)希薄になってしまいます。

このような現象を「ポストモダン」と呼ばれる現在に特徴的なものとして語られることが多いのですが, 私は違うと思います。 作者の意図を超えた作品の消費と再利用は昔から頻繁に行われてきました。 違いがあるとすれば「ネット以前」ではそれらの利用はごく局所的なエリアで行われていた, ということです。

たとえばシャワーを浴びながら「雨に唄えば」を唄うのに許可を得る必要はありません。 チラシやコースターの裏にどこかで見たような作品を真似た落書きや走り書きをするのに許可は必要ありません。 それらを身内や友人に見せても(聴かせても)問題ありません。 面白かった本を友人に貸したりあげたりしても違反にはなりません。

同じことをネット上で行えば著作権法違反になる場合があります。 それはネットが公衆空間であり上記の行為が公衆に対する行為であるとみなされる場合があるからです。 しかし考えてみてください。 本当にネットは公衆空間なのでしょうか。 実際にはプライベート空間とパブリック空間が重層的に入り乱れた空間ではないでしょうか。 このような空間ではいわゆる「フェアユース」(日本では権利の制限として知られているもの)はなし崩し的に萎んでしまいはしないでしょうか。 (この辺のことは以前「クリエイティブ・コモンズは誰のもの?」でも書きました)

著作権の思想には大きくふたつあるそうです。 これは「バーチャルネット法律娘 真紀奈17歳」で連載されていた 著作権法講座の第2回を参照すると分かりやすいかもしれません。 CC/CCPL の本家であるアメリカは英米法の流れです。 一方日本は大陸系の流れを強く受け継いでいるといわれています。 英米法ではコピーライト(複製権)が重視されるため権利の放棄が比較的容易なようです。 この典型が「パブリック・ドメイン」と呼ばれるものです。 一方日本における著作権は基本的に「自然権」であり放棄できません。 また人格権のように譲渡すらできないものもあります。

アメリカ本家の CC/CCPL の背景には, 著作権による過剰な権利行使がまかり通る一方でパブリック・ドメインのような完全に権利を放棄した仕組みもあるがその中間を担う仕組みがない, という問題がありました。 ロビー活動によって「過剰な権利行使」を牽制しつつパブリック・ドメインをうまく利用した「米国建国時代の著作権」のようなキャンペーンも展開し, そしてその中間的な層を埋める CCPL (または CCPL から派生するライセンス)をツールとして公開する。 これがアメリカ本家の戦略です。

一方, 日本の現状を見ると クリエイティブ・コモンズ・ジャパンやその他の方々のおかげで日本版 CCPL の公開には何とかこぎつけましたが, その他の問題については放置されたままのように見えます。 今年の著作権法改正案もあのまま通っちゃいそうですし。 CCPL は現状の著作権法やその他の法律を逸脱しない範囲でしか実装できません。 逆にいうと CCPL は現状の著作権をめぐる問題に対して何らインパクトを与えないのです。(CCPL が役に立たないといっているわけではありませんよ,念のため)

例えばある人が自分の作品について「15年後には全ての権利を放棄する」といっても現在の著作権法の仕組みではできません。 「権利保持者が放棄すると言ってるのだから放棄できるのではないか」 と思う人もいるかもしれませんが, 利用者が作品に対する権利の状況を確認する相手は著作権者なのですから, 結局その作品は著作権者のコントロール下にあるのです。 「権利を放棄する」ことを公に恒久的に保証するためには, 著作権者のコントロールの及ばない何らかの「システム」が必要なのです。

私はこのようなシステムが日本に必要だと思っています。 それは法的にパブリック・ドメインを実装するような形でもいいですし, 公的な組織が全ての権利を保留する(まぁ人格権の問題は残るのですが)ようなものでもいいです。 しかし日本という国単位でそのようなものが望まれているのかどうかは分かりません。 自動給餌機のようなコンテンツ配信システムでコンビニの弁当を買う感覚でコンテンツを消費するだけなら「パブリック・ドメイン」など(それどころか「自由のライセンス」すら)必要ないのかもしれません。 アメリカの CC の活動は明確な「意志」を持って行われていますが, 果たして日本にそのような「意志」はあるのでしょうか。 日本における CC の活動で問題になるのは案外そのような「基本中の基本」の問題なのかもしれません。