人の集まる「場」を支えるための「コード」

no extension

あらかじめ予防線を張っておきますが, 今回書く文章は私の中でもまだ確信があるわけではありません。 明日になったら違うことを言いだすかもしれません。 しかし「今」私が考えていることを書き留めておくことが重要と考え, この場で文章にしていきたいと思います。

先日 commonsphere.jp始動しました。 それまであった iSession Creative のサイト既に存在していないようです(もったいない) http://creativecommons.jp/isession/ に残っています(7/19 更新。情報感謝)。 commonsphere.jp では早速2つの記事が公開されています。

commonsphere.jp 側がどのような意図でこれらの記事を掲載したのかは分かりませんが, 私は両者の記事を2年前に八田真行さんが発表された「クリエイティヴ・コモンズに関する悲観的な見解」の延長と解釈しました。 増田聡さんのコラムではそのものズバリ八田真行さんの記事が引用されていますし, 西島大介さんのインタビュー記事にしても(タイトルにもありますように)「攻めるためのライセンス」というキーワードが出てきますが, これは裏を返せば攻める必要のない人達にとっては CCPL (Creative Commons Public License)利用に対するベネフィットなんかないと解釈することもできるのです。 しかし, このような考え(というか気分?)はお二人が変わっているというわけではなく, 日本では割と一般的なものではないでしょうか。 もっとも CC (Creative Commons)や CCPL 自体の認知度が日本ではまだまだ低いので「一般的」という表現も変ですが。

「クリエイティヴ・コモンズに関する悲観的な見解」はとてもよくできた記事で, CC/CCPL をよく知っている方々ほど大きなインパクトを与えているようです(実は私もかなりの衝撃を受けました)。 この悲観論は簡単に言うと「CCPL には著作者へのインセンティヴがない」ということです。 「インセンティヴがない」というのはつまり「CCPL を使ってみよう」と著作者に思わせるほどのベネフィットが CCPL に組み込まれていないということだと思います。 「CCPL には著作者へのインセンティヴがない」のはその通りだと思いますが, 私には CC/CCPL が意図的にそのように設計されているのではないかと思えるのです。

ところで, 日本では「コンテンツ」と言う呼び名は現場のクリエイターの方々からは敬遠されているという指摘があります。

「コンテンツ」という言葉は「入れ物」に対する「中身」というニュアンスで使われることが多く, その嫌悪感は日本の箱物行政に対する批判的態度とも通底しているようです。 CC/CCPL に対する「気分」もこれに通じるものがあるように見えます。 そもそも Commons という言葉自体が「入れ物」を連想させるものですし, 先の悲観論の「CCPL には著作者へのインセンティヴがない」という批判も CC/CCPL に対する箱物行政的なイメージ(優れた作品にはそれに見合う箱が必要という考え方)が反映されています。 CCPL と DRM との親和性を懸念する言論も同様に考えることができます(DRM はまさにディジタル・コンテンツを入れる「入れ物」ですよね)。 もし日本国内で CC/CCPL を普及させようと考えるのなら, CC/CCPL に対する箱物行政的なイメージを払拭するところから始める必要があるかもしれません。

「コンテンツ」の流通を考える際, 以下の三者に分けて考えることができます。

  • クリエイター
  • メディア
  • 消費者

インターネット以前の流通においては「メディア」は透過的ではありません。 クリエイターから見たときの消費者は「売り上げ」または「普及率」などの数値であり, 消費者から見たクリエイターは(メディアが作り上げた)偶像でしかありません。 また情報の方向もクリエイターから消費者への「下り情報」と消費者からクリエイターへの「上り情報」の2方向しかなく, 両者のノードとなるメディアにとっては情報のコントロールが容易な状態でした。 つまり流通においてはメディアが権威的に働いていたのです。

ここでインターネットの登場です。 インターネットというメディアはクリエイターと消費者を短絡させてしまいました。 このことによる混乱は今も収まっていません。 この状況にいち早く適応したのは「オープンソース」コミュニティです。 しかし, この段階ではまだクリエイターと消費者は区別されたままです。 「オープンソース」が適用されるのは主にソフトウェア・エンジニアリングにおいてで, その中には「コードを理解できるもの(=クリエイター)」しか存在しません。 大多数の「コードを理解できないもの(=消費者)」は「オープンソース」の枠外に置かれているわけです。 したがって, 短絡的ではあっても情報の方向は相変わらず「上り」と「下り」に集約できます。

さて, 現在はこれよりもう少し進んだ状況が発生しつつあります。 すなわちクリエイターと消費者の区別がつかなくなり事実上「情報の方向性」がなくなった状態です(情報の方向性がなくなったことでメディアには別種の権威が発生するのですが,ここでは割愛します)。 ここでキーになっているのは Weblog や Wiki といったコミュニケーション・ツールです。 実はこの件については2003年末ごろに HotWired Japan で記事を書かせていただいたことがあります。 しかし, このときは(Weblog や Wiki といった)具体的なイメージが思い浮かばず抽象的な話が先行してしまいました。 具体的なイメージが思い描けるようになったのは今年になって Flickr に参加してからです。

Flickr というのは簡単に言うと「写真共有サービス」ですが, SNS (Social Network Service)や Weblog や Folksonomy といった要素も内包しています。 Flickr ではユーザ(それも言語や文化背景が異なる人)同士が写真を使ったコミュニケーションを自然に行っています。 これらの状況を目の当たりにして, ようやく私はかつて自分が書いた文章の意味を理解できました。 おそらくこういった状況は写真のみならず文章や音楽(というか音声?)などを含むあらゆるコミュニケーション・サービスで発生しているはずです。

クリエイターと消費者が分かれている場合は著作権やライセンスといったものはクリエイターのためのもので, コンテンツを受容するだけの消費者は(例外はあるにしろ)これらの枠外でした。 しかし, クリエイターと消費者の区別がつかなくなりつつある状況では消費者(=クリエイター)こそが著作権やライセンスの行使者になりうるのです。 これは少し面倒な事態です。 何故なら消費者(=クリエイター)同士の公の場におけるコミュニケーションで最もコストがかかるのは(コミュニケーションの内容ではなく)相手側が行使する著作権の処理だからです。 これは明らかに馬鹿げています。 このような事態を回避するために Weblog などのコミュニケーション・ツール側で(CCPL などの)ライセンスが利用できるよう設計されたのは自然な流れだったと思います。 (ただし日本では初期の Weblog 論やそこで利用できる CCPL ロゴのファッション的消費への拒絶反応が強く, そこまでの議論に至っていませんが)

もちろん CCPL は「自由なライセンス」の実装のひとつでしかありません。 世の中にはもっと賢い実装があるかもしれません。 しかし, 何を採用するにしろ, これからのコミュニケーション・ツール/サービスでは消費者のための法的コードを組み込むことが必須になってくるはずです。 CC では既存のコンテンツを従来の「入れ物」から Commons に解放する作業 (「The Founders' Copyright (アメリカ建国時代の著作権)」「Science Commons」など) も重要なのですが, 消費者と呼ばれる私たち大多数の人たちにとっては CC/CCPL のもうひとつの側面である 『人の集まる「場」を支えるための「コード」』 がより重要です。 そろそろ実装面について議論を始めてもいいのではないでしょうか。

参考文献:

CODE
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posted with 簡単リンクくん at 2005. 7.18
山形 浩生 / 柏木 亮二 / Lessig Lawrence
翔泳社 (2001.3)
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